すべての「クズ共」のために
どこから来たかではない なにができるかでもない
私たちと何も共有するもののない――人種的つながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない――人びとの死が、私たちと関係しているのではないか?
何かが一人の官能の共犯者から 別の共犯者へと伝わる。 何かが理解されたのである。 共犯者の間で使われるパスワードが 認識されたのだ。 あなたを同じ仲間の 一人の共犯者に仕立てる何かが 語られたのだ。 ケツァール鳥、野蛮人、原住民、 ゲリラ、遊牧民、モンゴル人、アステカ人、 スフィンクスの。
「侵入者」では、他者性――私たちと対面するときに、私たちに訴えかけ、私たちに異議を申し立ててくるもの――の輪郭を描いている。 「顔、偶像、フェティッシュ」では、真の価値はなぜ、私たちが共有しているものではなくて、個々人を個別化し、彼または彼女を互いに他者にするものの方にあるのかを説明する。 「世界のざわめき」が示そうとしているのは、言語とはたんに、私たちの経験を同等で交換可能なものとして扱えるように平準化する、人間の約束によって制定された一つのコードではなく、むしろ、自然のざわめき――動物の、最終的には、存在し反響するすべての物のざわめき――から生じるものと考えられるべきだ、ということである。言語というコードを鳴り響かせるとき、私たちは、人間の解読者とだけではなく、自然界が奏でる歌、不平、雑音とも意思を疎通させているのである。 「対面する根源的なもの」では、語られる内容よりも、私がその場に存在して語ることの方が本質的となるような状況を検討する。 「腐肉の身体・腐肉の発話」は、ある特殊な言語状況で生まれる拷問を扱っている。その犠牲者は、彼または彼女が語り、信じたことのすべてが嘘であり、自分は真実を語ることができないと無理矢理に自白させられてしまう。 最後に、「死の共同体」は、人が死にゆく人と形づくる共同体を考察している。