慶応二年(1866)秋、曲芸師一行が横浜を旅立った。目的地はアメリカ、高野広八を後見役とする一行の名は帝国日本芸人一座。その妙技は各地の観客を魅了し、好評の中、巡業地をヨーロッパまで広げる。この間、一行はアメリカ大統領をはじめ各国の貴人・有力者との交流を行なう一方で、好奇心旺盛に巡業地の町を散策したり、取り囲んだ野次馬と乱闘したり、夜は娼婦を求めて出歩くなど、市井人ならではの約三年に及ぶ異文化を体験する。