◆渾身の龍太論ほか
飯田龍太が〈共感覚的素質〉の持ち主かどうかはさだかではない。しかし、自然から全身で何かを感じ取り、表現しようとした時、通常の感覚様式の枠組みをはみだしてしまうものがあっても不思議はない。龍太が写生について述べた〈感じたものを見たものにする〉(『自選自解 飯田龍太句集』)工夫とは、未分化な感覚がとらえたものを五官のことばに翻訳すること、と言い換えることもできるのではないか。その結果実現した作品が、既成の感覚表現を飛び越えているのは、すぐれた表現者にとってはごく自然なことだろう。
(「混沌の詩情」より)
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飯田龍太はさまざまな矛盾を一身に引き受けつつ、そのせめぎあいの中から豊穣な実りをもたらしてきた。
(本文より)
飯田龍太の俳句をさまざまな角度から照射し、その詩情、普遍性はもとより作品の背後にある混沌をも立体的に浮き上がらせた渾身の龍太論を収録。また飯田蛇笏を中心に、廣瀬直人、三森鉄治へと「雲母」の航跡を追う。「それぞれの光芒」と題した俳人論も読みごたえがある。