日本史を変えた「鎌倉殿」と「執権」という、2人の政治家――。
源平合戦から承久の乱まで、武士中心の社会は、いかにして生まれたか?
朝廷と幕府の関係が劇的に転換する日本史上の画期を描き出す!
・流人の頼朝を、北条氏が庇護した理由とは?
・富士川合戦の実像
・一の谷合戦の勝因は?
・源平合戦とは「武家の棟梁」勝ち抜きトーナメントだった
・頼朝の権力は、従来の「武家の棟梁」とは何が異なるのか?
・なぜ弱小御家人が筆頭の地位を占めるに至ったか?
・ポスト頼家をめぐる北条氏と比企氏の対立
・父時政を追放した義時
・実朝暗殺という窮地
・承久の乱は何をもたらしたか……
したたかに、武士の世を切り拓いた二人の奮闘に迫る!
貴族的であるがゆえに頼朝には限界もあった。朝廷に仕える「王家の侍大将」という自己認識が強く、朝廷と大きな軋轢を起こしてまで武士たちの権利を擁護するという意識は希薄だった。結果、鎌倉幕府成立後も、公家が武家に優越する体制は続いた。この体制を覆したのが承久の乱であり、その勝者が義時である。東国武士として生まれ、かつ義兄頼朝の政治(と権謀術数)を学んだ義時という人物が、頼朝の後継者として必要だった。武士一般の利益を代弁する組織としての鎌倉幕府が成立するには、頼朝と義時という二人の政治家が不可欠だった。どちらか一人だけでは不十分なのだ。本書が武家政治の創始者として、頼朝と義時の二人を取り上げる所以である。――「はじめに」より