天文22年(1553)、長尾晴景が府中で病死した。その葬儀を済ませた景虎に、信州からもどった諜者が、武田晴信の北信進攻を知らせた。そして8月、景虎は柿崎和泉守を主将とする軍を川中島に出動させたが、晴信の攻撃でさんざんに撃破された。戦さを始めて、初の不覚だった。憤りと恥辱に体を火のようにさせながら、景虎は、晴信の武略に舌を巻いた。甲信両軍の対決、引き分けがくり返されるうち、時は過ぎ、永禄2年(1559)、京の将軍足利義輝の密使が景虎に至急の上洛を告げて来た。三好長慶、松永久秀の専横に将軍の権位が失墜、政情不穏の気配だった。景虎は、武田晴信に和睦を固める使者を差し向け、4月、青葉の越後路を京に向けて出発した。