【はじめに】
柳宗悦は、近代日本を代表する思想家のひとりです。これから一年を費やして、彼の生涯と境涯を見つめ直してみたいと思っているのですが、今なぜ、柳なのかという問題をまず、考えてみたいと思います。
歴史的な人物である、というだけでは、今、改めて彼の言葉と行動の意味を味わう動機にはなりません。柳のような普遍にむかって仕事をした人は、いつ読み直しても何かがある、ともいえるからです。しかし今日は、まさに柳が対峙し、深めた問題に私たちもまた、向き合い直さねばならないところに来ているように思われてならないのです。
柳の生涯を読み解く扉になるいくつかの言葉があります。一つは「宗教」、「平和」、そして「美」です。
真の意味における「宗教」とは何か。その真実の役割は何なのか。この問題を私たちは避けて通ることができない場所に立っています。
「平和」とは何か、いかにして平和は実現し得るのか。この問題の切迫性は改めていうまでもありません。
柳にとって「美」は、人を大いなるものへと導く道であり、翼のような存在でした。
真善美という言葉があるように、ある人は、美ではなく、真、あるいは善こそがそのはたらきを担うというかもしれません。
なぜ、美であると柳は考えるに至ったのか。それは美こそもっとも広く、また等しくその救いの業を人々にもたらし得るからです。
美と救済に何の関係があるのか、という人がいても何の不思議もありません。しかし、「雑器の美」という柳の代表作にある言葉を読むとき、そこに現代人の感覚では捉えられない確かな可能性を見出すかもしれません。次の一節にある「神の子」とは人が、人間の本性は神の子であることを示しています。
神の子たるを味わう時、信の焔は燃えるであろう。同じように自然の子となる時、美に彼は彩られるであろう。詮ずるに自然に保障せられての美しさである。母のその懐に帰れば帰るほど、美はいよいよ温められる。私はこの教えのよき場合を雑器の中に見出さないわけにゆかぬ。
私たちは人の子であると同時に神の子でもある。その事実を深く経験したとき、信仰の焔が燃えたつ。それに似て、人は自らが自然の子であることを自覚したとき、まことの美とは何かを知る。それは自らの内心の彩り、すなわち「たましい」の姿を認識することにほかならない、というのです。
ここで「雑器」と記されているものを柳はのちに「民藝」と呼ぶようになります。「民衆的工藝」の略語です。民衆が民衆の日常生活を支えるために作った日用品のことです。飾るためにではなく、日々、用いられるために作られた「民藝」にこそ、真の美が宿っている。それは人々に発見されるのを待っている、と柳は考えたのです。(後略)
【もくじ】
第1回 目には見えないもの
第2回 神思うゆえにわれあり
第3回 朝鮮の友へ 力の時代のなかで
第4回 木喰仏に見出されて
第5回 「民藝」の誕生
第6回 日本民藝館 美のさなかに立つ