絹子は大阪・天満菅原町の乾物問屋に生まれた。昭和十五年、周囲の猛反対を押し切って当時人気抜群であったOSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK)に入り、駒ひかると名のって舞台に立つも、世の中は戦争に突入していく。大店の跡取り娘が、戦中戦後の混乱している芸能界を知恵と力でくぐり抜け、無名に近い落語家・桂米朝と出会い、結婚したのは昭和三十三年四月のこと。米朝の内弟子一号の枝雀、二号のざこばら、型破りの多くの弟子たちを陰から支えて育ててきた。本名は中川絹子、舞踊名は若柳吉古錦。波乱に満ちた半生記のはじまり始まり-。