(「改題」(羽下大信)より抜粋)
この本は、彼自身の心理臨床の活動の中での、死をめぐってのクライエントとのかかわり、それに刺激されての彼の思考、自らの中に飼ってきた死のテーマの再発見、そこから立ち現れる死のリアリティに触れようとする。登場するのは、自分のクライエント、尊敬する師、友人、先哲とりわけエピクロス、実存的スタンス、また短くだがドーキンス、文学作品。ヤーロムは、これらを介することで、先ほどの「生死の実感」とは別の方法から、「他人の死」のその先を描こうとする。
この本の美点は何だろうか。その第一は「率直であろうとする態度」ではないか。とりわけそれが鮮明に表れるのは、死に向かおうとする人に相(あい)対して、対人援助者としてかかわるとき、である。その具体的な展開のさまざまは本文に譲るとして、ひとつだけ例を挙げれば、あるクライエントが自分の生活の全てを整理して高齢者住宅に引っ越す際の、最後の最後になってパニックに陥り、電話をかけてくる。いつ切れるか分からない緊迫したやり取りが展開され、一定の落ち着きを見たのちの振り返り。ヤーロムは、このクライエントとのやり取りの中で、自分の語った言葉の内容・意味(コンテンツ)は意味があるものだった、とか、どれかのフレイズが有効だったのだろう、とは、決して考えない。では何が有効だったのか。ここから先の叙述が、この本の真骨頂だろう。
もうひとつ美点を挙げれば、ヤーロムは、畏友とも言えるロロ・メイの最晩年とその最期に付き添う。また、かつての師匠たちの晩年とその孤独の傍にいる。このいずれの場合にも、「その人」たちから見たら、自分はどういう存在かに、必ず思いを致す。この点が、なかなかに魅力的である。このスタンスは、何も、対人援助専門家だけのものではない。また、逆に言えば、残念ながら、このスタンスを持ちえないままの対人援助専門家も多々いるのが現実である。普通の人の中にも、こうしたスタンスに意識的な人々も存在する。こうした人たちに巡り合うと、われわれはハッとする。その意識の実存的ありようを見せられ、大事なものに触れるからである。
ヤーロムが、かつて影響を受け、あるいは世話になった人たちの晩年に、最後まで会い続けること。それも、ときには西海岸から東海岸という長大な距離を跨いで。そのこと自体も、なかなかに実行し難く、我と我が身を振り返っても、冷や汗の出る思いである。このように、この本は読むうちにこちらを我に帰らせる。そのようにさせる喚起力がある。それは、死のテーマは、誰か他人のものでもなく、それにかかわる専門家のものでもない、この「私」のものである。彼がそう言っていることからやってくるのだろう。