いけばなに触れることは大地に抱かれること。
そして「自分」を整えること。
「いけばな」というと、花の飾り方について実用的なことを
書き連ねなければ、なんて思いがまずありました。事実、僕が
こうして、この書籍を書かせていただいているのも花道家としての
接点から生まれたものです。
ところが書き進めていくうちに、そうした技術的なものは
「副産物」に過ぎず、
自分がいけばなを通じて得たものは、
別のところにあるのではないかと思うようになりました。
ふと立ち止まったときに、前に進む推進力を与えてくれる本。
そういえば小さい頃は図鑑が近くにあったな。
心象を綴ったものやワイン関連の書籍に囲まれていたこともある。
今なら植物関連の本が部屋ごとに目につく場所に置いてある。
いずれも自分の知識欲、好奇心をくすぐり
背中を後押ししてくれるものたちです。
自分の半生を綴ることが誰のためになるのかは、書き終えた今も
わかりません。ただ、その半生をもとに続けてきたいけばなには、
先人の蓄積が多分に織り込まれています。
いけばなという行為そのものは、植物の一生に照らしてみると、
わずか1パーセントにも満たない、人の手で摘まれ断たれたあとの
余生みたいなものでして。
さらに植物の進化、適応の歴史まで鑑みればもう、
ないに等しい存在です。
その余生、わずか1パーセントを100と捉えて、
人のありようを投影してかたち作られ受け継がれてきたものがいけばなです。
いけばなには、人の暮らしと、その何万倍もの命の系譜が
息づいているように思えます。